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地方制度研究会 〜能登半島視察&ボランティア活動〜

輪島の朝市通り
輪島の朝市通り

8月27日(火)から28日(水)にかけて、私が事務局長を務めている「地方制度研究会」(代表:中田宏 参議院議員)の有志メンバーで、能登半島の被災・復興状況の視察とボランティア活動に行ってきました。

 

金沢駅で集合し、まずは内灘町へ。

車から街並みを眺めると、正直そこまでの被害ではないなと感じましたが、詳細に回ってみるとその印象が一変しました。

こちらのお宅も完全に傾いていました。
こちらのお宅も完全に傾いていました。

本年1月1日に発生した能登半島地震で、内灘町は震度こそ5弱でしたが、砂丘地盤が激しく動いたことによる液状化現象の被害が甚大で、地区によっては道路が激しく隆起し、ほぼ全ての家屋も居住不能となっていました。

  • 液状化現象で用地の境界がずれてしまい、元の境界が分からない。
  • 道路と宅地の高さが共に大きく変化したため、どの高さを基準として復興するか、行政と地権者間の合意形成が困難。
  • 現地での再建を希望しない住民が相当数出てきている。

上記のような状況から、まちの復興にはまだまだ相当の年月がかかると町役場の担当者が率直に答えてくれました。

 

続いて七尾市へ移動し、茶谷義隆 七尾市長・木下敬夫 七尾市議会議長から、発災後の対応・復旧の状況・復興に向けた課題などについてお話を伺いました。

1列目の右から4人目が茶谷市長、5人目が木下議長
1列目の右から4人目が茶谷市長、5人目が木下議長

私からは、発災直後に最も苦労したことは何でしたかという質問をさせていただき、「とにかく断水が続いたことが一番キツかった。特にトイレの衛生状態が悪化し、お年寄りや子どもに健康被害が出たり、避難所でのトラブルにつながってしまった」という回答を聞いて、私自身が12歳の時に体験した阪神大震災の記憶が鮮明に蘇りました。

 

また「他の自治体からの人的支援がとにかく有難かった。発災直後の岡山県総社市からの自主的な職員派遣や、国が定める対口支援制度によるさいたま市等からの職員派遣によって、パンクしそうな行政対応を何とか維持し、七尾市職員の疲弊も軽減できた。本当に感謝している」という茶谷市長のコメントが大変印象的でした。

発災直後の中継でよく映っていた、輪島の朝市通り近くの倒壊したビル。そのままでした。
発災直後の中継でよく映っていた、輪島の朝市通り近くの倒壊したビル。そのままでした。

その後、和倉温泉街や輪島の朝市通りも回りましたが、営業できている旅館や店舗は僅かで、さながらゴーストタウンのような雰囲気でした。建物の倒壊や被害ももちろん酷いのですが、温泉を引くための水道管があちこちで断裂しており、修復のための費用が大きなネックになるとのことでした。

 

復旧・復興にはまだかなりの時間を要するというのが、現地を見ての率直な感想です。

2日目は、能登町でボランティア活動に従事しました。

重機が入れない狭い路地の中の家屋が倒壊しており、その瓦礫を運び出す作業です。

全員で協力しながら、手作業で瓦礫や土砂を取り除いていきました。

中田参議院議員も、還暦とは思えない体力で中心となって動かれていました。
中田参議院議員も、還暦とは思えない体力で中心となって動かれていました。
私は、地味ですが力の要る土囊袋の積み上げと整理を主に担当。
私は、地味ですが力の要る土囊袋の積み上げと整理を主に担当。

移動時間の関係で正味3時間程度の活動でしたが、現地の方々が驚く量の瓦礫を撤去できました。

最後に、今回の視察を通じて私が感じた問題意識をまとめておきます。

 

① 災害時の私権制限

  • 発災直後、自衛隊の車両が渋滞に巻き込まれ現地到着が遅れた。
  • 例えば、隣り合う家2軒の解体を進めるためには、行政・解体業者・2軒の地権者が共に現場で立ち会わなければならず、その調整に時間と手間が取られ解体が進まない。

今回の能登半島地震でも、これまでの災害で繰り返し指摘されてきた上記のような事態が発生しています。何故こうなるのかというと、我が国は緊急時においても基本的に平時と同じ法制度が適用されるからです。果たしてこれで良いのでしょうか。個人の権利・私権はもちろん最大限尊重されるべきですが、災害時などの緊急事態においては一定の制限をかける必要があるのではないでしょうか。根本的には日本国憲法の問題に突き当たるのですが、南海トラフ地震その他の危険性が叫ばれる中、災害時の私権制限については国政において速やかに検討・議論を始めるべきです。

 

② 避難所の定義と整備

今回の能登半島地震においても、学校の体育館や地域の公民館などが主な一次避難所として使用されました。しかし、七尾市の茶谷市長が指摘されたトイレの問題など、避難した住民が最低限満足できる環境でなかったのが実情です。こうした施設が実態として、通常の用途(運動や地域交流)を優先しており、「避難もできる」程度の整備しかされていないことが大きな原因だと言えます。私は根本的に発想を転換し、災害対策基本法に則って各自治体が体育館等を一次避難所として最優先に置いている以上、避難所としての使用に耐えうる整備を予め整えた上で「平時は体育館や公民館として使う」という踏み込んだ位置付けが必要だと考えます。

 

③ 地方の活力

視察先とボランティア現場において、人手不足を痛感する場面が多々ありました。一定の人口がまちに居ること、若い人が地域に留まることが「災害に強いまちづくり」の観点からもいかに重要かを身をもって知りました。

とはいえ、地方の人口減少を食い止めるのは一朝一夕ではできません。そこでまずは、交流人口を何とか増やしていくべきだと考えます。

 

私の友人で、釜谷直人さんという方がいます。彼は2011年の東日本大震災の際、ボランティアで現地に入り「これは経済を回しながらの息の長い支援が必要になる」と感じて、大阪で東北のお酒を扱う日本酒バーを開業しました。それから10年以上、バーのお客さんも巻き込みながら、復興支援イベントの開催や定期的に現地入りしての交流促進などに取り組み続けています。

 

昨年、テレビ大阪が彼のことを取り上げた番組があるので、ぜひこちらをご覧ください。

釜谷さんの活動には本当に頭が下がりますが、様々な工夫を凝らしながら交流人口を増やしていく取り組みが、能登半島においても求められると感じました。私も自分に何ができるか、模索してみようと思います。

 

今回の視察も、非常に有意義なものとなりました。受け入れていただいた各自治体や一般社団法人OPEN JAPANさんに改めて感謝を申し上げ、本稿を閉じます。